Twitterをやめたらクリエイター力が上がる話/機械学習で考える「才能」の話

たけみやです。

作曲家でボイストレーナーでITエンジニアです。歌が苦手です。

この記事は雑談です。

「Twitterの話」と「才能の話」をします。

ちょっと深そうなことを考えたいときに読んでもらえると幸いです。

それではいってみよー。

内容まとめ

  • クリエイターにとってはツイートも創作物である。創作活動に使われるべきクリエイティビティの一部がTwitterに割かれてしまう。
  • あれこれ考えすぎてしまうタイプの人には特に向いていない。
  • 考えなしに成功できる人は、才能がある人。そして才能とは機械学習でいう「パラメータ」が最初から最適解に近い状態にあること。
  • 才能と努力は対等ではなく、一つのシーケンスに過ぎない。才能のなさに抗うためには、最適解に近づいていくための学習を行うしかない。

Twitterやめたら戻れなくなった話

Twitterを休んでみて1ヶ月ほど経った。

以来、Pinterestという程よく面白すぎないSNSのようでブラウザのようなアプリをごく短時間眺めるだけの、なんとも心地よい日常が続いている。

表現をする仕事だからということもあり、Twitterをやらないとこの世に存在できなくなるかのような気分で続けていたけれど、特にそんなことはなかった。

実際、Twitterから仕事が舞い込むような身分でもないわけで、現状はTwitterをやっても特に楽しくはなく、これと言って役に立つこともない上に、宣伝効果も期待できず、しまいには日々のバズりが目まぐるしくストレスになる。

そういうわけで、Twitterを休んでみた。すると、クリエイターとして得られたメリットがわかったので、軽く論じてみたいと思う。

まあこれは、ついにTwitterをやめる口実を発見したのでそれを正当化していきますという、言い訳の羅列みたいな記事になることでしょう。

クリエイターにとってはツイートも創作物である

ツイートも創作物だということがわかった。

創作をしたことのある人ならわかる話、創作という行為には本当にたくさんのエネルギーを使う。

日がな「それ」について考え続け、何日も「それ」をこねくり回して、ようやっと「それ」を完成させる。

Twitterという手段があることによって、「ツイートしなければい毛ない」という義務感が生じていた。

ツイートするからには、何か面白いことを思いついたり、素敵なことに出会わなくてはならない。そして、どのように文章をまとめるかを考え続けるので、脳のリソースの一部がずっと使われてしまう。

つまり、クリエイティビティの一部がTwitterに占有されてしまうのである。

短い文章にまとめること自体は、創作活動の一つで、その能力の向上と捉えることもできるだろう。でも、普段から創作しまくっている身にしてみたら逆で、ずっと濁った気持ちで曲作りなどに勤しむ羽目になるのだ。

あげく、ツイート編集画面で出来上がった文面を眺めて静かに「キャンセル」を押すことが本当に多い。悲しいくらい無駄な時間だ。

クリエイター個人として責任を持って表現活動をしていこうと思うと、好き勝手につぶやくのもはばかられるし、真面目なことを言うのも寒いし、かと言って面白いこと、素敵なことは日常においてそう多くない。というか、そもそも目立ちたいという欲求もない。

そう考えると、マジでツイッター向いていないな・・・。

Twitterには何かエネルギー的なものを吸い取られて、それだけな気がする。浅く広い付き合いが大好きなわけでもないので、やはり知り合いが増えても承認欲求の満足より先に精神の疲労で潰れてしまうであろう。

あれこれと考えてしまう人間にとっては、そのクリエイティビティは創作活動に向けるべきだ。きっと。まあ何も考えず思うままにツイートしても「どこまでも行ける人」は行けるのだろうけども。

それについては次の話題で語ろう。

機械学習にみる「才能」のあり方の話

さて、思うままにツイートしてもどこまでも行ける人、というのが出てきた。それはTwitterの才能がある人ということに他ならない。

才能の話を展開していこう。

仕事柄、才能について考えることは多い。

作曲についても、歌についても、あらゆる能力に才能が伴う。

才能とは何なのかということであるが、「機械学習」の考え方が題材として非常によい。

「猫と犬の画像を判別するシステム」でなるべく簡単に説明してみよう。

猫と犬の画像を判別するシステム

このシステムは、「画像」を与えることで「猫か犬の判定」を返す。

この処理は、画像→[ゴニョゴニョ]→2値 という入出力の変換と考えられる。

簡単に言えば、[ゴニョゴニョ]の部分で行う処理は行列の掛け算だ。

まず画像を行列で表し、それに[ゴニョゴニョ]行列を掛ければ0~1の値が出る。その値が0に近ければ「犬」、1に近ければ「猫」と判定するのだ。

この[ゴニョゴニョ]にあたる行列を「パラメータ」という。深層学習では、何十次元、何百次元というクソデカいベクトルになる。

「画像+犬or猫のラベル」という正解データセットをたくさん用意することで、システムは自動的に学習していく。

従って、機械学習システムでは、学習によって、パラメータを最適な値にじわじわ変化させていくこととなる。

要は、パラメータ(行列)をだんだんよくしていく。それだけわかればOKだ。

で、才能とは機械学習でいう「初期パラメータ」である。

システムは初期パラメータを持っている。乱数などで適当に作った行列だ。

おそろしく才能あるシステムは、そのパラメータが最初から最適な値になっており、「何も学習しない状態でも猫か犬かを完璧に判別できる」のだ。おそろしく有能。(もちろん天文学的な確率なのでリセマラしても普通は辿り着けない)

そして、やっと主題に入る。

才能ないシステムは、学習さえすれば理想のパラメータを獲得できるのだろうか

これを考えることが、人間の才能においても大変重要となる。

才能の対義語は努力じゃない

ここで必要となる用語が「局所最適解」だ。

このシステムは、学習するにしたがって、パラメータをじわじわ変化させながら犬猫判別の精度を高めていく。精度が上がらなくなってきたら学習完了だ。

さて、ではそこが本当に理想の地点なのだろうか。

判定精度が60%とかだったらどうだろう。このシステムの限界は本当に60%なのだろうか。

システムは、初期パラメータからじわじわと理想パラメータを目指す。よって、近くにそれらしいパラメータがあったらまずそこを目指す。少し離れると精度が落ちるのでまた戻る。そして留まる。そこが局所最適解。いわば才能の限界である。

例えば、高いところに行こうと思って近所のマンションの屋上にのぼった。でも隣町にはもっと高い建物がある。そして東京には東京タワーがあり、スカイツリーがある。

そんな感じで、最適解と思われた地点が実は本当の最適解ではないことがあるのだ。

本当の最適解は「全体最適解」と呼ばれる。

そのパラメータを持てば、犬猫を100%の確率で判別できるらしい。でもそこに辿り着けるのは、生まれつき初期パラメータがそれに近い機械学習システムだけ。

そう考えると、人間が曖昧化し続けている「才能」というものの残酷さが、少しわかりやすくなるのではないだろうか。

局所最適解への対策

対策の一つは、パラメータの変化を「じわじわ」でなく、もうちょっと激しくしようというもの。そうすることで、県境を越えるかのように、少し遠くの最適解が見つけやすくなるのだ。

人間の才能についても同じで、才能を獲得するために飛び越えなくてはならない境界が出てくる

例えば、一般的なボイトレは局所最適解を目指す。来る日も来る日も発声訓練を行なって、なんとなく声がよくなった気がする。でも憧れの歌手とはまるで違って、才能のなさをただ思い知るだけ。

私のやっているボイトレは、まず全体最適解の場所を提示する。生まれつき歌える人の「自由な歌声」を意識させる。現実を突きつけ、どれだけ離れているかを教える。固定観念を捨てさせ、当人の「普通の声」の認識から変えてもらう。それがすなわち、初期パラメータを全体最適解の領域に置くこととなるのだ。

そうすれば、あとは努力次第。きちんと全体最適解に近づいていけるのだ。

まとめるとこんな感じか。

  • 才能は、機械学習でいう初期パラメータである。全体最適解の近くに位置すればこそ、努力によって行けるところまで行ける。
  • 固定観念を捨てて全体最適解の領域に行くことで才能の壁を超えられる。

(定義上の全体最適解は唯一のものだけれど、もっとざっくり「ここよりもっと良いエリアにいって高みを目指す」くらいの感覚で思ってほしい)

「才能」から始まり「努力」で進むだけ

才能は初期値で、努力は学習。全くもって相反するものではない、ひとつのシーケンスだ。

才能に対抗するためには、もうひとつメタな目線でパラメータをいじる必要がある。固定観念を打ち砕き、もっと根本的な部分から模倣しなくてはならない。

才能に打ち勝つということは、それくらいの覚悟を持ってやらねばならない。

覚悟がない人は、他の才能を探すべきだし、才能の壁を超える覚悟がないのであれば、才能のなさを嘆いてはいけない。

Twitterの才能って?

Twitterの才能も、犬猫判定と大して変わらない。

どうすればリアクションが増えるのかを考えることは、パラメータ調整である。

何も考えずにみんなが喜ぶツイートができるということは、初期パラメータが優れているということ。リアクションに波がある人は、少し調整する必要がある。

一方、みんなが喜ぶツイートが自身の感覚と乖離しているタイプがいる。そういう人はマジで向いてないというか、まさに才能がないので、ここに長々と書いているような「学習」をしない限り良いツイートはできないのだ。

だから僕はツイッターをやめた・・・。

もちろんTwitterの才能を掴み取ることに燃えられたらよかったのだけど、なんか全く燃えない。興味が出ないのだ。

そんなところで、今日の雑談はおしまい。

Twitterは今後も宣伝だけという感じで、ほとんど見ないかもしれない。

才能に抗うのって本当につらいものなので、逃げます。

それではまた。